歴史・文化
- 更新日:2024年11月8日
曛静山薬王寺
曛静山薬王寺(くんせいざんやくおうじ)は江戸時代、良循法印が薬師堂、本堂を再建、中興開山とされており、現在の本堂は1723(享保7)年に再建しました。
山門は、二宮尊徳が江戸時代、疲弊していた地元青木村の農村復興事業の一環で再建された青木堰で使われていた木材を使用して造られています。これは二宮尊徳の偉業を、青木堰の改修により使われなくなった木材を再利用することで、後世に伝えようというもので、山門は1918(大正7)年に完成しました。柱は水に強いケヤキ材で、堰で使われていた時の桟を通した穴が残っています。
境内には樹齢400年の紅葉もあり、別名、もみじ寺とも呼ばれています。毎年、美しい紅葉を撮影しに観光客がたくさん訪れます。また、境内の奥にある竹林と紅葉もぜひご覧になってください。例年11月中に紅葉の見頃をむかえます(紅葉情報は薬王寺にお問合せください)。
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春にはお寺の脇にある桜も楽しむことができ、周辺の里山では山桜も楽しめます。お寺の脇には染井吉野と陽光の桜があり、例年4月の上旬に見頃をむかえます(開花情報は薬王寺にお問合せください)。
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青木堰とは
青木堰は、戦国の昔から桜川の上流青木地内にかかる堰(せき)です。この堰のお陰で水田には水が貯えられ、青木村(現桜川市青木)は良質の米を産出する恵まれた土地でした。
しかし川が急流であったことから、堰は増水のたびに流され、改修に多大な費用がかかっていました。青木村は江戸の初期から幕府領でしたので、地元の負担は大きくありませんでしたが、1708(宝永5)年に旗本 川副新右衛門頼賢(かわぞいしんうえもんよりたか)の知行地となり、幕府の支援が受けられなくなると堰は壊れたまま放置されるようになりました。その結果、水不足が慢性化し、米の収穫量が激減してしまったのです。農家も離散や移住を強いられ、元禄年間に130戸あった家が39戸まで減少してしまいました。
この村の危機をすくったのが、小田原(神奈川県)出身の農政家 二宮尊徳(金次郎)です。当時、知行地4千石の復興事業に成功した二宮尊徳の名は、近隣諸国に知れ渡っていました。その評判を知った名主館野勘右衛門以下37人は、1831年、尊徳のもとに赴き、青木村の復興を助けてくれるよう直談判したのです。その熱意に打たれた尊徳が、青木堰の再建に着手したのは1833(天保4)年のことでした。
尊徳は自ら設計図を引き、桜町陣屋から連れてきた大勢の作業員や村人らを督励(とくれい)し、当時、工期50日、工費100両余掛かるとされた難工事を10数日、約60両で完成させ、世間を驚かせました。この目覚ましい成果は、尊徳流の仕法(復興計画)の有効性を実証するものでした。
作業員達には用意した酒、餅を自由に飲み食いさせ、破格の賃金を支給して士気を高め、作業の能率を上げました。また、建設現場の上流に綱を渡して堰の型枠となる小屋を作り、綱を切り落としたあと、岩石を投げ込んで沈めるという前代未聞の工法を用いたのです。
「青木村仕法」と呼ばれた青木村の復興計画は、荒れた田畑の復元、新田開発、用水路、道路、橋の建設、神社仏閣や民家の屋根のふき替えから農民の借財返済にまでおよびました。農家数は1839(天保10)年には62戸に増え、村人は助け合って農業に励み、豊かな村に変わっていったのです。
お立ち寄り観光スポット ※クリックでページに飛びます
○雨引観音(車20分:7.3km)
○曜光山月山寺(車20分:7.8km)
○椎尾山薬王院(車50分:17.4km)
○富谷観音(車20分:7.4km)
○真壁の町並み(車20分:10km)
薬王寺周辺のお食事処 ※クリックでページに飛びます
○手打ちうどん やまぼうし(徒歩8分:500m)
○ごはんと純米酒の店 Goenmon(車13分:4.5km)
○グラスデイ岩瀬店(車12分:4.7km)
おみやげ ※クリックでページに飛びます
○いきいきファームやまと農産物直売所(車10分:4km)
○今井落花生店(車13分:6km)
歴史スポット
○二宮尊徳の顕彰碑(徒歩19分・車8分:1.6km)
詳細情報
所在地 | 茨城県桜川市青木1375 |
アクセス |
○JR水戸線岩瀬駅よりタクシー15分(4km) ○桜川・筑西ICより15分(3km) ○真壁より車20分(10km) |
電話番号 | 0296-54-4569 |
駐車場 | 2ヶ所 25台 |
トイレ | 有 |
地図情報
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